本記事は2024年の12月から3カ月以上に渡って行われた宇崎王決定戦についての報告である。

前回:異世界アニメ王決定戦(2023)
序
宇崎王決定戦とは、宇崎アニメの中の "王" を決定する戦いである。
選考は、毎週土曜日に「宇崎アニメ」に該当すると考えられる作品を1作品ずつ視聴し、その後審査員による議論を行うという形式で進められた。
結果的には6人の審査員が最も "王" にふさわしいと考えるアニメを投票し、宇崎王を決定するに至った。つまり実施方法としては昨年度実施した異世界アニメ王決定戦と概ね同じであるといえよう。
宇崎アニメとは?
先ほどから「宇崎アニメ」という表現が当然のように用いられていることに不安になった方も多いと思うが、安心してほしい。「宇崎アニメ」の定義は決まっておらず、何なら審査員の間でも終ぞ定義が決まることはなかった。
そのため、あくまで一個人の意見としてこの「宇崎アニメ」の定義を行っていきたい(特に出典とかないのであくまで個人の意見であることはご理解いただきたい)。
「宇崎アニメ」という概念を定義するためには、その語源となっている「宇崎ちゃんは遊びたい!」という作品について理解する必要がある。そしてそのためには、「宇崎アニメ」の成立と性格を考える上で決定的な影響を与えた「からかい上手の高木さん」という作品から紐解いていく必要がある。
「宇崎アニメ」の定義が審査員の間で固まらなかった主要な原因は、この「高木さん」から「宇崎アニメ」が産まれるにあたって、どの特性が保持されていてどの特性が変容したのか、またそれにはどのような背景があってどのような特徴量として抽出されるのか、ということが極めて複雑であったからだろう。今回はまず「高木さん」とはどういう作品であったか、その影響で如何にして「宇崎アニメ」が産まれたか、その際「高木さん」と「宇崎アニメ」で通底する概念は何なのか、それ以外の「宇崎アニメ」を「宇崎アニメ」たらしめているものは何なのか、それらを通じて「宇崎アニメ」の定義を定めていきたい。
「からかい上手の高木さん」は非常に画期的なラブコメ作品であった。というのも、それまでのラブコメの王道といえば主人公に対して複数ヒロインがいて半ばハーレム状態で進行していく構造が多かったのに対し、「高木さん」は主要キャラである高木さんと西片という二人のクローズドな関係性に焦点を当て、両者の関係性や会話を描くことで見事にラブコメを成立させたためである。 そしてこの「高木さん」式の物語構造はラブコメ界を席巻していくこととなる。その要因は明らかでないが、いわゆる負けヒロインが生まれないことによる安心感が支持を集めたとか、恋愛意識の変化によるハーレムに対するやんわりとした忌避感が若者を中心に広がっているとか、アニメの視聴者女性が増えてきたとかいう通説がかなりexplainableであろう。要はラブコメにおいても、オタクの欲望が色濃く反映されたハーレムアニメではなく、より現実的な等身大の恋愛模様を安定感のある形で描く事が求められるようになった、と言えば話は早いかもしれない。



加えてTwitter漫画やWeb漫画の爆発的な流行は、「高木さん」の特徴でもある二人のわかりやすい関係性を単話のオムニバス形式で進める様式とも極めて相性がよく、「高木さん」のフォロワーとなる作品はその後急増していくこととなる。
ここまで読んで、じゃあ「宇崎アニメ」ってのは「高木さん」の質の低い二番煎じのことじゃん、となるのは早計であるため、一度落ち着いて欲しい。
そもそも「高木さん」の一番の魅力は、高木さんと西片が互いに好意を寄せあっているが、中学生らしく互いに素直になれないので高木さんがからかってしまう、ということによる "青春の甘酸っぱさ" と それに基づく "あったかもしれない青春の追体験" を感じられることで、売れた理由もそこにあると個人的には考えていた。
しかし「高木さん」フォロワーの中には、上述のような「高木さん」の魅力ではなく、より表層的な特徴のみにインスパイアされた作品が多数存在する。即ち、「○○さんは〜」とか「〜な○○さん」というタイトルフォーマットで興味を惹きつつ、“揶揄う” という一見特殊に見えるが、その実現実的でもある二人の関係性を誇張し特殊な(そしてそれは時に異常な)関係性を描くことで差別化を図った作品群である。その中でも特に、"揶揄う" という行為そのものを誇張した「高木さん」フォロワー作品としてよく挙げられるのが「宇崎ちゃんは遊びたい!」である。特に「宇崎」のような作品は、「高木さん」の描くプラトニックな世界観とは異なり、特定の層の嗜好や願望をより直接的に反映した描写が目立つことから、様々な評価や批判の対象となることも少なくはない。

実際のところ、話題性を追求する過程で、「高木さん」が持っていた本質的な魅力が十分に継承されず、表層的な模倣に留まっていると評価される側面も否定できないだろう。つまり、「高木さん」がラブコメにおいてハーレム型からより現実的な関係性を描く方向へと一つの道筋を示したのに対し、「宇崎アニメ」はその表面的な形式を一部踏襲しつつも、その内容は再び特定の層の願望や欲求を色濃く反映した、ある種の原点回帰とも言える様相を呈しているのではないだろうか。
この仮説をさらに深めるために、まず「高木さん」と「宇崎アニメ」で通底する概念について考える。 とりあえず明白なこととしては、一人のヒロインが主人公に積極的に関わり、「揶揄う」またはそれに類する行為を通じて関係性を展開するという物語の基本構造や、登場人物を主要な二人に絞り込み、彼らの閉じた関係性に焦点を当てるという形式は両者に見られる共通の骨格と言えるのではないだろうか。
では、その表面的な形式以外の、「宇崎アニメ」を「宇崎アニメ」たらしめているもの、すなわちその本質とは何であろうか。 第一に挙げられるのは、キャラクター描写における「高木さん」的な内面性や関係性の機微の放棄と、それに代わる「ヒロインの記号化」の徹底である。「宇崎アニメ」においては、ヒロインが身体的特徴や社会的関係性などに代表される極めて分かりやすい「属性(記号)」の集合体として提示される傾向が強いと感じている。そして、その行動原理もこれらの記号に強く規定され、視聴者が期待する役割を忠実に、そして過剰なまでに演じ続ける。そこでは、キャラクターの内面を深く掘り下げその複雑な心理を読み解くというよりも、予め付与された記号がもたらす直接的で定型化された「萌え」や性的魅力といった要素を効率的に享受することが主眼となっている。これが、先に触れた「特定の層の願望や想像力を色濃く反映した」内容の具体的な現れ方の一つと言える。もちろん原作では連載が進むにつれてキャラの内面が描かれ始め、後付け的にキャラの魅力が描写されていくことも多い。しかしアニメの範囲内ではそこまで展開することも珍しいだろう。
第二の本質は、近年の嗜好を反映した結果としての「徹底的に安心感を追求する」という根源的な志向性である。「高木さん」が提供した「安心感」は、中学生の日常というリアリティの範疇で、読者が共感しうる心地よい緊張と緩和のバランスの上に成り立っていた。しかし、「宇崎アニメ」が追求する「安心感」は、より直接的で、ある種の無菌状態に近いポジティブな空間の維持を目指すものである。かつてのラブコメが内包していたような、関係の不確かさ、すれ違い、あるいは深刻なライバルの出現といった、読者に心理的負担や「ドキドキ」を強いる可能性のある葛藤要素は、意図的に極小化、あるいは排除される傾向にあるのではないだろうか。この「安定感のあるラブコメを作ろう」という意図は、結果として「高木さん」が持っていたような繊細な感情の機微や、関係性構築のリアリティとは異なる種類の価値観を作品に持ち込んでいる。
この徹底的に安心感を追求する傾向を象徴する「宇崎」における代表的な手法として、「白米」と呼ばれるものがある。

「白米」とは宇崎らがイチャつくと周囲の人物たちが白米をかきこんで喜ぶ行為、またその白米をかきこんでいる人物を指す。この「白米」は、主人公たちの間に生じうる微妙な空気や真剣な感情の動きを周囲のキャラクターがユーモラスに「茶化す」ことで、意図的に緊張を緩和し、物語全体を安全なエンターテイメントとして再構築する役割を果たしている。これは、読者の能動的な感情移入や複雑な解釈の余地を減らし、より受動的に、そして確実に心地よい感情を享受させることを目的としている。ここで敢えて指摘したいのは、「宇崎アニメ」の指向する安心と安定が満ちた世界観の一部として「白米」という特徴が表出しているのであり、「白米」そのものが「宇崎アニメ」の特徴なのではないということである。ここについて他審査員が異なる見解を述べていたことから、今回このように筆をとって考えを残しておくこととした。
話を元に戻すと、これらの本質、即ち「ヒロインの記号化及びそれに基づく内面性の相対的な後退」と「特定の層の欲望充足と安心感の希求が生んだリアリティと緊張感の質の変化」、そしてそれらに基づき独自に発展したアニメこそが「宇崎アニメ」なのではないだろうか。
以上の考察を踏まえ、本稿における「宇崎アニメ」を改めて定義する。
筆者が定義する「宇崎アニメ」とは、「『高木さん』のもつ関係性の機微を捨て、特定の層の欲望の充足のためにヒロインを記号化し徹底的に安心感を追求したことで独自の発展を遂げたラブコメ作品」及びその様式を指すこととした。
決定戦概要
まず審査員全員で集まり〈宇崎アニメとは何か?〉という定義について話し合い、宇崎アニメの輪郭を捉え、それを元に作品のノミネートを行った。
今回のノミネートの基準としては、まず「○○さん」とタイトルにつくことや、登場人物が少ない(該当作品のWikipediaにおける登場人物欄の記載の少なさが顕著である)こと、インターネット媒体において掲載されていたことなどを元に、審査員のこれは見たほうがいい、見なくてもいいといった意見を踏まえて選定を実施した。
「高木さん」は広義では学園ものの作品であるため不適かとも思われるが、web漫画の一ジャンルである社会人ものの作品も複数チョイスし、「宇崎アニメ」の定義の再解釈にも努めた。
それらの作品群の中から毎週1つずつルーレットで選ばれたものを視聴していき、視聴後に議論を交わし、恒例となっている感想文の提出までを一セットとして実施した。

結果的に視聴順は以下の通りになった。
まずは原点を知り、各々の中に基準を設けるため視聴。当然「宇崎アニメ」ではないのでランキングには不参加。
先輩がうざい後輩の話
労働系宇崎アニメその1。"先輩がうざい" と冠していることからも「高木さん」より「宇崎」に近い要素を持つと期待されている。
宇崎ちゃんは遊びたい!
「宇崎アニメ」と名前を冠するに至った時点で既に「宇崎アニメ」であることがこの決定戦内で唯一確定している逸材。漫画は面白いらしいが、まだ読めていない。
好きな子がめがねを忘れた
宇崎アニメ定義・ノミネート会合にて存在が秘匿されていたのだが、ある審査員が良心の呵責に苛まれて会合終了前に滑り込むこととなったダークホース。
イジらないで、長瀞さん
以前視聴会合が開かれて3話終了時に休憩が入り、そのまま会合が解散したという実績を持つ優勝候補。
実は「高木さん」よりも歴史が古い作品ということで今回の趣旨には沿っていない気もするが、コミュニケーション行き過ぎた系の漫画として「宇崎」とよく同列で語られていることもあり、視聴することとした。
うちの会社の小さい先輩の話
労働系宇崎アニメその2。他の宇崎アニメの多くが行き過ぎたコミュニケーションを描く中で、「宇崎」とは対極を行く"甘々系" とも称される行き過ぎた包容力のあるコミュニケーションに至った異端者。
世話焼きキツネの仙狐さん
「小先輩」をさらに "バブみ" に寄せ切った労働系宇崎アニメ番外編。審査員の中には本作を宇崎アニメと認めない派閥もあったが、先述の定義に基づけば立派な宇崎アニメであると考えている。
可愛いだけじゃない式守さん
当時リアルタイム放送中に挫折した話数が審査員内で最も早かったという経歴を引っ提げ登場した、こちらも今回の優勝候補。
経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。
経緯は後述するが、「宇崎アニメ」の再解釈等のために、より定義を広げた作品を視聴する必要が発生し視聴することと相成った作品。「宇崎アニメ」ではなさそうだが、果たしてどうなるか。
オタクに恋は難しい
労働系恋愛アニメで、宇崎アニメなのかどうかは視聴時点では不明。映画版の評価が低いことはずっと知っているのだが、視聴できていないため今度見ようと思っている。
評価基準
先ほど示した「宇崎アニメ」の定義に沿っていることを大前提として、下記のような評価項目についても考慮したい。
キャラクター描写と関係性の快適度
前回の異世界アニメ王決定戦ではストーリーを中心としたマクロな観点から評価を実施したが、今回はストーリー性に重心がある訳ではない。したがって、今回はキャラとそのキャラ同士のやり取りというミクロな観点から評価を実施する必要があると感じた。
その際に「宇崎アニメ」の定義としては「安心感」が挙げられるということになったが、そこで描写されるキャラに不快感があると「安心感」を損なうものとして評価が高くなるのではないだろうか。
勿論あくまで「高木さん」がそうであるからといってストーリーを展開させてはいけないという訳では無い。しかし結局のところ宇崎アニメというのはシチュエーション大喜利の究極形態の一つであり、その大喜利から降りてストーリー性で逃走したからにはきちんとそれ相応のストーリーを展開させて貰わないと高評価となってしまう。
社会福祉の観点
前回の異世界アニメ王決定戦では、異世界アニメとは疲れた労働者を癒すための作品であるという結論に至り、労働者の生産性及びそれに基づく労働者の成果物としての日本産業への貢献度についても考慮した評価を実施した。
では同様の考え方に基づくと、宇崎アニメというのは誰に向けられた作品で何を目的にしているのか?ということについても考える必要があるだろう。このことについて、それぞれのアニメにおいて充足させたい欲望があるだろうから、きちんと目的とする層が見え、そこへのアプローチがうまくいっているか、またそれらが倫理的に健全かという社会的な観点からも評価をしたい。
感想
ここでは個人的な順位に基づいて感想を記載する。

今回の決定戦の争点となっている○○さん系アニメの原点にして頂点、そしてその後の作品群に多大な影響を与えた作品。
改めて視聴したが、中学生という設定と西片のそれ相応に等身大なキャラが不快感がなく微笑ましくて良い作品という印象だった。先述の通り本作の魅力は「あったかもしれない (学生時代の) 過去の甘酸っぱい追体験」というテーマにあって、その点が本作の魅力である一方、「宇崎アニメ」では、この甘酸っぱさや追体験といった要素が異なる形で扱われたり、あるいは重視されていなかったりするように感じられた。
あと関係ないけど、「高木さん」って頭脳戦ブームの名残も感じるよなと思った。この作品の駆け引き部分を強調したら「かぐや様」が出来て、完成度で他の追随を許さなかったから特に発展していないんだろうけども。「高木さん」を構成する要素として視点から抜けていたので反省した。
選外:可愛いだけじゃない式守さん

放送当時、主人公の気弱な性格描写が自身の好みとは合わず、3話で視聴を中断した作品。こうしたキャラクター造形がどのような層に支持されているのかは、ラブコメ作品を分析する上で興味深い点の一つと言えるだろう。

そういう話をしたら審査員各位もそれくらいでリタイアしていて、期待が持たれていたのだが、結果としては宇崎王にノミネートしたことが申し訳ない非常に面白い作品だった。
というのも、序盤はWeb漫画発の作品に散見される、単一のシチュエーションを反復するような構成が目についた。これは本企画で定義した「宇崎アニメ」の特徴にも合致する部分がある。しかし、物語が進むにつれてライバルキャラクターの登場や周囲の人物描写に深みが増し、構成のしっかりとしたラブコメ作品へと変貌を遂げていた (Wikipediaにも作者が途中で連載化するにあたってきちんとプロットを書き始めたという記載があった)。
そのため本作品を当初の印象だけで判断し、本決定戦の俎上に載せたことは早計であったと認めざるを得ない結果となった。
なお、本作品はルーレットの結果最終週に見ることになっていたのだが、鳴り物入りで視聴したにも関わらず結果としては良作であったことから決定戦は混乱を極め、その後真に“王”となりうる作品を追加ノミネート、謎のアニメ視聴、自主研鑽期間など1ヶ月以上に渡る闇の時代に突入した。自主研鑽期間には僕ヤバを見たのだけど、まあまあ面白かった。
最下位:イジらないで、長瀞さん

「宇崎」のヒロインによる「イジり」の度合いや時に過激とも思える描写がより前面に出ている作品。放送当時、主人公のやや露骨な(時に肉欲的な)内面描写に共感を示している視聴者層が存在しているということを直視できず、こちらも3話で視聴を断念した。
改めて視聴してみると事実そういう側面もあるのだが、主人公のコミュニケーションには多分に未熟な点が見受けられ、長瀞さんの「イジり」は、そうした主人公の言動に対するある種の的確な反応、あるいは視聴者の感情を代弁する役割を担っているとも解釈できた。そのため当初の印象とは異なり、本作を単なる「イジり」の過激さだけでなく、登場人物間の関係性の変化や、ある種のコミュニケーションの在り方を描いた作品として捉え直すことも可能だろう。
ストーリーも序盤は一辺倒だが、Twitter漫画によくあるネットの擦られたネタに逃げずオリジナリティがあったし、終盤の11-12話のまとめ方も他の作品とは一線を画すまとめ方であった。終盤の展開において、安易なタイトル回収に頼らなかった点は評価に値するであろう。長瀞さんが主人公に対して恋愛感情を抱くに至る説得力についてはやや描写が不足しているように感じられた点が惜しまれるが、個人的には宇崎王決定戦では最下位で、また優勝候補と名高い作品が一番に優勝争いから脱落するという波乱の展開となった。
7位:うちの会社の小さい先輩の話

言うなれば甘々系オフィスラブコメみたいなジャンルに属する、ロリ巨乳先輩との親密な関係性を中心に描いた作品。他のノミネート作品がコミュニケーションの齟齬や特殊な関係性を起点に物語を展開させる傾向があるのに対し、本作は終始安定した先輩後輩関係の中での好意的なやり取りが描かれる。そのシンプルな構成ゆえの分かりやすさや、ヒロインの好感度の高さは、本決定戦の対象作品の中では比較的ポジティブな印象を与えるものであった。主人公(篠崎)の内面には定期的に性的な意識も描かれるが、その表現が比較的マイルドであったため、視聴の上で大きな不快感を覚えることは少なかった。ただし、これを積極的に評価する要素とまでは言えないかもしれない。また、主任のキャラクター造形や物語上の役割については、その意図を明確に読み取ることが難しかった。特定の視点からのみ評価すべきキャラクターではないだろうが、その存在意義については解釈の幅が広いと言えるかもしれない。
ところでこのアニメを見た週からドラマで同じ作品が放映されていたので審査員有志で毎週視聴する羽目になっていたのだが、こちらは全てが終わっている非常に下劣で危険な作品だった。

この決定戦にドラマもノミネートしてよかったら本作品が優勝していた可能性も高い。詳しくは語らないので、是非自分の目で確かめて欲しい。
6位:世話焼きキツネの仙狐さん

「小さい先輩」の、ヒロインの幼い外見的特徴をより強調しつつ、年齢設定は高くすることで、いわゆる「容姿は幼いが甘えさせてくれる年上」というキャラクター属性(バブみ)を強く打ち出した作品。
「長瀞」と同じで、本作の特定のキャラクター造形やシチュエーションが、ある種の嗜好を持つ視聴者層を強く意識しているように感じられ、その点が個人的には倫理的な観点から強い抵抗感を覚える部分であった。この印象は再視聴を経ても変わらなかった。
しかし、ここで言う「抵抗感」とは、作品の完成度が低いという意味ではない。むしろ逆で、本作は特定の視聴者層の期待に応え、ある種の癒やしや願望充足を提供するための構成や演出が非常に巧みであると感じた。テーマが曖昧であったり、物語構成に難があったりする作品とは異なり、本作はその目的と表現が一貫しており、それゆえに強い訴求力を持ち得ると言えるだろう。この「目的の明確さとそれを達成する技術の高さ」は、他のノミネート作品と比較しても際立っている点であり、ある意味では評価すべき側面かもしれない。
近年、「推し」に代表されるような精神的な拠り所を求める心性や特定の関係性への渇望が、様々な形で言分けされている傾向にある。本作が提示するような、絶対的な受容や献身的な「お世話」といったモチーフも、そうした現代的な欲求の表れの一つと解釈できる。ただ、それが現実世界の複雑な人間関係や精神的な課題を過度に単純化し、表層的な安らぎへと収束させてしまう可能性については、慎重な姿勢を貫くことが必要ではないかと感じる。約5年前に放送された当時と比較して、こうした表現がより無批判に受容される土壌が広がっているとすれば、それは文化的な想像力のあり方として、あるいは社会的な受容のあり方として、一度立ち止まって考えるべき点かもしれない、という危機感を覚えた。
最終的な評価としては、上記のような倫理的・社会的な影響に対する懸念を抱きつつも、物語としての構成力や安定した作画といった技術的な完成度も認められこれ以上の作品と比較するのは申し訳ないと感じたため、この順位とした。
5位:ヲタクに恋は難しい

様々なタイプのオタクであるメインカップルたちの日常や恋愛模様を通して、オタク文化におけるあるあるネタを多く取り入れた作品。ただ、そこで描かれる「あるある」ネタの多くは、既にインターネット上で広く共有されているものが散見され、また、作品全体のユーモアの方向性やテンポ感が銀魂女子みたいで自身の嗜好とはやや異なると感じられた。
しかしながら、本作の原作が発表されたのが10年以上前であることを考慮すると、当時はこれらの「あるある」ネタに新鮮味があった可能性も否定できない。また、作品の主なターゲット層が女性であることを踏まえれば、筆者の受け止め方とは異なる評価軸が存在することも理解できる。これらの背景を考慮し、今回の順位とした。
本作で特筆すべきは、インターネット上で見られるような共通認識や「あるある」ネタを積極的に作品に取り込み、SNSなどを通じて読者・視聴者の共感を醸成しようとする技法がラブコメに取り入れられている点である。これは、「高木さん」のような作品の魅力とは質を異にするものであり、むしろ本企画で考察してきた「宇崎アニメ」に見られる特徴――すなわち、特定の層への訴求や共感の重視――と通底する部分があるのではないだろうか。こういった特徴も「宇崎アニメ」に代表されるアウトプットであるという発見もあった。
4位:好きな子がめがねを忘れた

三重さん (ヒロイン) がメガネを忘れたことから距離感がバグってしまうというシチュエーション大喜利を擦るアニメ。中盤くらいまでラブコメっぽく振る舞っていたところは良かったが、以降はネタ切れして独自性が無くなっていき、急に主人公が鈍感主人公になって話の引き伸ばしにかかっていたところはまあ良くなかっただろう。鈍感主人公というのは複数ヒロインとかがいて付き合うか付き合わないか、誰と付き合うんだ?みたいな駆け引きを見てのやきもきが楽しい (俺は楽しくないけど……) ものかと思われるため、このような作品には相応しくないように感じた。終盤は急に主人公が三重さんに忘れられたらどうするのか? (恐らく三重さんが眼鏡を頻繁に忘れるのと同様、人間をも忘れてしまうということか) ということに偏執を始めて、それが主題になる謎の展開へ突入する。三重さんの隣に並べる人間になりたい、と言っていたが、三重さんが主人公の先を行っているようには見えず、説得力がなかった。三重さんは金持ちで主人公は治安悪そうな家柄だったからそういうことなのだろうか。
そして本作品を象徴するのは衝撃の第13話で、二人が小さい頃駄菓子屋で会ったことがあったという事実が判明して感動のBGMが流れていたが、ここまでの話との関連性が特に無く決定戦会場では困惑の嵐が起こった。もともとそういった意味が無い1巻のおまけエピソードだった様なのだが (当時驚いたのでわざわざ読んだ)、原作を改悪して更に頓痴気な作品となっているのは悲しいことである。このような整合性や計画性の無さを高く評価する声も上がる一方で、私個人としては絵が良かったことも含めて不快感自体はない作品であることからこの程度の評価に留めた。
3位:経験済みなキミと、経験ゼロなオレが、お付き合いする話。

ヒロイン(性に奔放だが純情)のいわゆる「処女性」を巡るテーマが一貫して描かれている作品。このテーマ設定自体は作品の個性と言えるものの、その執拗なまでの反復や描写のあり方については、個人的に強い抵抗感を覚えざるを得なかった。(何話か忘れたけど、非処女だから失ったものはもう戻らない、その重要性を誰よりもわかっているみたいな描写はちょっと面白かった)。
物語中盤では、姉妹間の関係修復といった異なるテーマも提示されるが、謎の浪人生などのエピソードに多くの時間が割かれ、ようやく12話で話の盛り上がりが作られたかと思ったら即頓挫して無かったことになって盛り上がらず、最終的に物語が再び処女性を巡る物語に回帰し消化不良のまま収束したように感じられた怪作。
本作が「宇崎アニメ」に該当するか否かについては、審査員間でも議論があった。私見としては、本企画で定義する「宇崎アニメ」の核となる「安心感の追求」という観点からは外れると考える。しかし、「オタクに優しいギャル」といった特定の願望充足型キャラクターと同様に、「純情な非処女のヒロイン」という、ある種の理想化された存在を求める層の欲求に応えようとする側面は、「宇崎アニメ」的な要素を内包しているとも言えるだろう。
最終的な評価としては、「宇崎アニメ」としての適性の低さが減点要素となった一方で、それ以上に作品全体のテーマ性や物語構成における看過し難い問題点から、この順位に落ち着いた。
2位:先輩がうざい後輩の話

本作は、男性の先輩と女性の後輩という関係性を軸に、舞台をオフィスに移した「宇崎」の亜種かと当初は予想された。しかし、タイトルにある「うざい」という先輩の描写は希薄であり、社会人という設定も物語に深く活かされているとは言い難い、捉えどころの難しい作品であった。
社会人という設定を活かすことは出来ていないと書いたが、社会人エアプにならないようひたすら社会人に関することへの言及を避けた結果、スーツを着た学生がオフィス背景で学校生活を送っているような奇怪な空間が出来上がっていたのは作品としては味があった。
社会人設定の描写を意図的に避けた結果なのか、登場人物たちがスーツ姿で学生のような日常を送るという、ある種シュールな空間が形成されていた点は、ある意味で独自の雰囲気と言えるかもしれない。
そして、本作で特に印象的だったのは、武田先輩の行動原理である。彼の行動の多くは「仕事上の上司だから」という理由付けで説明されるが、その範囲を逸脱しているように見える場面も少なくない。キャラクターが物語の都合で動かされる「舞台装置」という批判はしばしば聞かれるが、武田先輩の場合、その行動に本人の感情が伴っていないように見え、時に不自然さや、ある種の不気味さすら感じさせた。例えば、純粋な善意からだとしても、会社の上司が業務外で後輩の私生活に深く立ち入る描写は、現実的な感覚からは違和感を覚える視聴者もいるのではないだろうか。
加えて、登場人物間の関係性の進展や感情の変化を描く描写が総じて表層的で、どうやって12話で急に恋を仄めかす展開になったのかその過程の説得力に乏しいと感じられた。おかしいと思って原作も読みに行ったが、ほぼ最終回まで先輩は何故そういう行動を取っているのか自分でも分かっていなかった。
物語の構成は既存のテンプレートを踏襲し、女性陣の背が低い・胸が大きいといった身体的特徴を繰り返しネタにするという、ある種の定型的な手法で1クールを維持している点は、ある意味で安定していると言えるかもしれない。
総じて、一時的なアイディアを元に連載が開始され、大きな方向転換や深掘りがないまま展開した結果、「高木さん」のような繊細な関係性の機微も、「宇崎」のような明確なコンセプトの提示もない、どっちつかずの作品という印象を受けた(アニメーション制作を担当した動画工房の映像表現は高品質であったことを付記しておく)。しかしながら、そのキャラクター造形の徹底した記号性と、他の多くの作品が何らかの新規性や挑戦を試みる中で、他の作品が挑戦的な作風で頑張る中で一切挑戦していないその姿を評価せざるを得なく感じたためこの順位とした。
優勝:宇崎ちゃんは遊びたい!

本決定戦のきっかけとも言える、「高木さん」以降の潮流を代表する一作。初見時、その表現のあり方に少なからず衝撃を受けた記憶がある。
宇崎アニメとは何か?という定義から審査員各位と議論を交わした中で、我々は「白米」であるべきではないのか?という視点、即ち「宇崎アニメは宇崎でいうマスター視点に立って、微笑ましがるためのアニメなのではないか?」という意見が出て、目から鱗が落ちると共にそういう視座を持てなかった当時の自分を大きく恥じることとなった。
それを踏まえて、これを良い機会に「白米」を準備し、「白米」の視点から本作品を見返すこととしたのだが……。

本作のラブコメディとしての本質は、ヒロイン・宇崎花が主人公・桜井真一にいわゆる「ウザ絡み」をすること以上に、原作がTwitterやwebで連載されていたことに起因する、インターネット特有のコミュニケーション感覚やユーモアが色濃く反映されている点にあるのではないだろうか。
ネットの内輪ノリはキモい。その事に気付くにはある程度失敗を重ねた大人である必要があるし、逆に楽しむためにはある程度若い必要がある。
いや、少し待って欲しい。この作品を楽しむためには精神性を大人に持っていく必要があるんじゃなかったのか?
そう考えてみると、この作品には至る所に矛盾が生じている。
1話から執拗に繰り返される巨乳弄りを楽しめるのは中学生までだろう。
誰もがTwitterで見たことがあるネットミームやネットで擦られているあるあるを物語の人間に喋らせて嬉しいのは高校生までだろう。
宇崎がウザい描写以上に描かれている、店で宇崎と桜井が暴れて迷惑を掛ける描写が面白いと思うのは大学生のノリだろう。
そしてこれら全ては大人としては笑えないノリなのにも関わらず、宇崎たち二人の関係性を楽しむために我々は成熟した大人であることを求められているのである。
このように、作品を享受するために視聴者が自身の精神的な立ち位置を場面ごとに調整する必要があるのだとすれば、視聴者の技量が試される作品とも取れるが、それは娯楽作品としてターゲット設定に曖昧さを抱えていると言えるのではないだろうか。かつて献血キャンペーンを巡る騒動が起きたのも、本作が内包する要素が、結果的に様々な立場の人々にとって何らかの違和感や不快感を抱かせる可能性を持っていたからなのかもしれない。
宇崎とは何か?という議論によって形作られた 宇崎アニメ という定義が、逆説的に宇崎というアニメの問題を浮き彫りにした、それはとても皮肉な結果ではないだろうか。
それでは次回はクラス転生王決定戦か追放王決定戦で会いましょう。